ここ何日かぼんやりと、狂言が写実的であるということを考えています。能が現存の他の芸能とならべて特殊なかたちを「作り上げて獲得したもの」と見られる一方で、狂言の写実はこの世界に当たりまえにあったようなイメージは、自分にもあります。でもそうなのか。
例えば、謡や舞にのせては笑いはやれないという選択があったはず。能狂言以前から以後もずっと歌舞劇や無言劇が続くなかで、まわりとは違う写実的台詞劇も、意図的であったはず。結局、写実的台詞劇は笑いにおいて進められて、そして狂言=芝居になったこと。そんな流れと意味は、あんまりしっかり語られてないように思えるのですが。
下手をすると、狂言は必ずしも写実ではないとか、必ずしも笑いではないという話も言いたがりがちで、もちろんそれはそうなんですが、なにかチラチラとまわりを意識していて不自然。素直に正面から狂言に向き合えてない感じがする。
やっぱり写実的台詞劇の存在は、そんなに当たり前ではない気がするんですけどねぇ。