目次

 

狂言台本リンク

 

野村又三郎信英の伝承

 「長きは下手なり」

 「狂言の特長とトメの種別」

 「三番叟の習い」

 「狂言秘帖(一)」

 「狂言秘帖(二)」

 「花子の話」


狂言台本リンク

法政大学能楽研究所デジタルアーカイブ「狂言」

「和泉流明和中根本」は現在の又三郎家本につながる本。

「和泉流間習分」「和泉流間狂言伝書」は又三郎家本。

 

観世アーカイブ「狂言」

観世文庫所蔵の狂言関係資料。又三郎信英の狂言六儀も含まれますが、そこだけ残念ながら画像リンクがなく見られません。

小早川本の靭猿も同じ系統か要チェック。
「悪太郎」

「簸屑」

「三人片輪」替之止メ

 

愛知県立大学図書館貴重書コレクション和本の世界「和泉流秘書」

明和中根本、又三郎家本と同系統。

 

国文学研究資料館篠田融旧蔵能狂言写本コレクション「和泉流 狂言六義」

昆布売を見たところ、又三郎家本とそっくり。要チェック

鞠座頭、昆布売、若和布、太刀奪、盆山、清水、呂蓮、口真祢

 

同上「釣狐 釣手抜書」

要チェック

 

国文研高乗「狂言集」

要チェック

 

間狂言あひしらひ世理付法大鴻山

 

金子柳太郎手沢型付「わきアシライセリフ」法大鴻山

この二冊は、脇と間狂言とのセリフで、普通の謡本には載っていないやりとり。

金子柳太郎は明治期の佐渡宝生流。


右流左止六義国文研

旧蔵者?による帯に「山脇方・野村派ニアリテ三宅派ニナシ」と。要チェック


大蔵流狂言小舞集国文研

現在は又三郎家にのみ伝承される尼ヶ崎が「追加」と朱書して入っている。又三郎家では「都の町」ともいう「幼気したる物」が「京の町」とある。他に珍しい小謡が多そう。要チェック



又三郎信英の伝承など

「長きは下手なり」野村又三郎氏談 (雑誌「能楽」)

野村又三郎氏は京阪地方に鳴れる和泉流の狂言師なり、先月観世祖先五百年祭の催能の節、清廉氏の招きにより上京せし以来暫く滞留し、喜多追善能、梅若催能、等にも出勤ありしが、其の滞在中一席聞きたる談話の内面白き節あれば、記憶に存する丈左に摘載すべし。
此度は観世のお招きで参ったのですから、其れ丈けで帰る積りであったのですが、喜多の御追善能もあり、梅若さんの御催もあり、あれへも之へもと申す様な事で長滞留になりましたが、廿四日に細川様の御邸の御催を済せましたら帰ります積りでございます。私の家はずっと昔は細川様に抱えられて居りましたもので、三代目から尾張侯へ代ったのでございます。其縁故で細川様へはズット御出入りをして居ましたから、小早川や野間なども稽古をしたのでございます。尾州侯へ抱えられました先祖の死んだのが元禄十四年十二月四日でありまして、彼の赤穂の義士の讎(あだ)討とは十日違いであったのです。

和泉流と申す狂言は清水が流るる様にと申すので、工面もなければ綾もなく淳良(すなお)にスイと致して居る芸風なのであります。私共の若い頃は、京都地方にも大蔵流もあれば、鷺流もあり、同じ大蔵流の内にも八右衛門流と申たのもありましたが、どの流義にも随分名人が数々ありました。八右衛門流では大津に河島弥三郎というが居り、京都にも山川庄九郎というがあり、大蔵流には今の茂山千五郎の親がやり盛って居り、鷺流にも板倉吾助、同要蔵、荒木清九郎などというが居りましたが、皆中々の名人で、どの流儀のを見てもブラブラ長い事をやって居るのはありませなんだ。長たらしくブラブラやって居るのは下手に極って居ます。見物人が退屈がるのは屹度(きっと)だれて居るのでございます。如何にお素人じゃというて、呼吸が詰んで引き締って居る芸を見て退屈するものではありません。下手なダレる上に兎角長い事をやってなりません。一度見物人の気にでも入った様な模様が見えると、其の事を度々繰返しますから、始めは珍らしがって面白いと感じた事も、度重れば嫌になってしまいます。

狂言のアシライでありますか。兎角囃子方が苦情を言いたがるものですが、其れは大間違いなことで、是れは昔からあることに極って居ます。大蔵虎明と申す人の書いた書物の内に、笛は狂言のアドなりと書いてあります。必ず無くてはならぬものです。太鼓が翁の時に出るなどは全く翁の附属となっている風流の為めなのです。風流さえなくば翁に太鼓の出る必要はありません。五番狂言と申て、末廣、麻生、三本柱、目近、張章魚の五番には必ず四拍子共揃うたアシライが入ります。狂言神楽などと申て中々アシライの六(むつ)かしきものがあります。大社の間や石神、大盤若などが其の類です。末社の舞などは囃子が良くなくては舞れはしません。其れも狂言方がしっかりさえして居れば、囃子方が彼是れは言はしません。片地が何やらトリがどうやら知らずに謡うて居る様な事では囃子方に向いて兎角の言様もありません。何か言わるるも畢竟は其力が足らんから起るのです。

先日も此方(こち)ら(東京)に居る若い者から、狂言はおかしうするものだという事が新聞に出たが、情けない事じゃというて参りましたが、おかしいというも面白というも同じ様なことで、おかしいからというて仁〇(にわ)かの様に道化てはならず、面白いからというて能の様に位取過ぎてならず、淡泊にサラリとやる内にムツクラした旨味が必要なので、見物人を飽かさぬというが何より肝心です。長たらしいのは屹度下手に相違ありません。


「狂言の特長とトメの種別」野村又三郎(雑誌「能楽画報」)

トメのいろいろ

 一般には、狂言というと「やるまいぞ」を連想される。其処で「也留舞会」の名も生れたわけであるが、実は狂言のトメは「やるまいぞ」ばかりではない。外に数々ある。

 △神ドメというのがある。名の如く神物のトメで「此所にこそ収まりけれ」とトメる時に、イヤ、イェ。すかして、イヤ、イヤア、イヤアとシテなりアドなりその舞人が自ら声をかけてトメるのである。これを神ドメというが、山本氏や萬蔵氏の方ではこれを用いていないようである。

 神様でも「福の神」は笑って入れば、神ドメではない。けれども舞台でトメになるならば正面に向いて笑いドメにして、それから、イヤア、イヤア、と二段ドメにしなければならない。然るに正面で笑いドメにしてそのまま引込んでしまうのは、書物にもあるけれども、その書物は、曾て伝授を受けない者の書物である。「福の神」は神様だから、笑ってトメて、更に神ドメに、つまり、二段ドメにしなければならないのである。これは一例であるが、この種の伝授の乱れた事は沢山ある。

 △笑いドメ これは舞台で大きく笑ってそのままトメるもの。鬼瓦などがそれである。

 △シャギリドメ 必ずアシライのあるもの。即ちワキ狂言、末廣がりなど。

 △やるまいドメ これはいうまでもなく「やるまいぞやるまいぞ」で引込むもの。これは本来「追込」というが、一般にはこれが人気があると見えて、狂言を頼まれるときに「やるまい」にしてくれという注文が多い。

 △しさりドメ 実は斯ういう名があるのではなく、「しさりおろ、ハア」といってとめるものを、俗に「しさりをろドメ」略して「しさりドメ」などという。

 △一つドメ「南無三宝しないたり」でトメるもの。習い物は「しないたり」といっただけでトメるが、普通のものは「しないたりしないたり」と返していう。「粟田口」などがその通りである。

 △舞ドメ これはキリが舞地のもの。

 

狂言の特長

 習い事は鷺、大蔵、和泉三流とも曲目に大差がない。甲流で習いにしてあるが、乙流では習いでない、というようなものは、まあ無いといってよかろう。

 面は勿論のこと、装束小道具万端シテ方とすべて違えている。それが昔からの約束で、唐織なども狂言方は金入を用いないのが本来である。弓矢のようなものですら寸法が違う。打杖にしてもシテ方と同じになることを避けて、雲雀山の勢子などには長杖を用いる。斯ういう末節ですらこの通りであるから謡の調子や節などは、昔は狂言独自のものがあった。私の幼少の頃には「それではシテ方の謡になってしまう」といって叱られたものだ。然るに「近年の壮い人達のを陰で聞いていると、辛じて文句によって狂言の謡だという事がわかる」という批難さえ聞くようになった。これは、ほんとうに考え物だと思う。

 杖の扱い方などにも、シテ方と異った習いがある。寸法にも習物と普通の物とで差がある。普通はわが乳までとあるが、習物になると一寸短い。釣狐などは、実演の前に、シテの身長によって、乳の下一寸の処を以って杖の寸法を定める。それだからこの杖に限り父祖累代の杖で演ずるということは覚束かない。

 和泉流の家元が確立されたことは、流儀の為に結構なことだと思う。家元には外に分家があって、累代芸にたずさわっていたのであるが、今はこの家の芸は絶え、当主山脇得平さんは名古屋の銀行に出ておられる。


「三番叟の習い」野村又三郎(雑誌「能楽画報」)

 三番叟が重い習であることは云うまでもないが、私の家には尚その上に重い習の附くものがある。

  初日式三ヶ条 三ヶ条

         附ケ之舞

  二日目之式  烏帽子之祝儀

         橋掛之舞

  三日目之式  十人子宝

   三ヶ条ト云 附ノ舞

  四日目之式  作リ道者

  五日目之式  三髪ノ祝儀

  六日目之式  声ヲ引

  七日目之式  田唄節

    右七種

 これらは、昔勧進能やお大名方のお祝いなどの何日も続いて、毎日翁のあった時に、大夫の方にもその日その日の式があったので狂言方でも自然それに応ずる異式の必要があって、斯ういう習が生れたものであろう。当今はそのように翁が何日も続いて催されることがなくなったから、自然これを演ずる機会もなくなったようなものの、その代りにシテや催主に望まれれば、以上の諸習は随時これを演ずることにしている。斯ういう昔から伝わって来ている習いは、成るべく絶やさないように、忠実に保存するのが、私らの義務である。

 私は今年七十七歳であるが、三番叟を披いたのは十五歳の時であった。その前年今の茂山千五郎氏も矢張り十五歳で三番叟を披かれた。依頼私は今年まで五十回ほど三番叟を勤めているが、前に述べた習いの異式は大概勤めている。当今では能の催しも数が多くなっているから、若い人達は年のわりに番数も多く勤めているであろうが、明治の初年から日露戦争頃までの催し数は、とても当今とは比べ物にならなかった。


「狂言秘帖 野村又三郎翁聞書(一)」(雑誌「能楽」)

〇口上

 狂言和泉流の野村又三郎翁が、同流の名家の出身である事及び、萬齋翁につぐ老齢である事、斯道の故実に精通して居られる事などは、天下周知の事実で今更申上るまでもありません。

 以前から聞書を作りたい事を考えながら、其の折を得ませんでした所、今度御忙しい中を御話し下さる御快諾を得ましたので連載して本紙を飾りたいと思います。

 御期待の程を望みます。 ―筆記者、龜松生―

 

〇老人の愚痴話から

 色々お話したい事は沢山にあります。だが、一つ、老人の愚痴を先ず聴いてもらいましょうかね。

 一体に狂言師というと、皆様が妙に下積みにお扱いになります。能の間に一番の狂言を演っても、中々真剣に見て下さる御方が少のうございます。何うも致し方のない事だときめてしまえば、何事もありませんが、元来のなり立ちから考えますと、現在の我々は何うでもよいとして、骨を折って是だけのものをまとめて来た故人には申訳がないと思います。

 

〇能と狂言が組んで一番

 御承知の通り、能というものは能と狂言と組んで一つのものが完全されます。能ばかりでもいけず、狂言ばかりでもいけず、車の両輪の様な関係があるものでございます。ですから、能はおシテばかりのものではない事、是は何誰も御認めいただける事でございましょう。

 狂言師の役所は元来、所謂三枚目所ですから、役柄からいっておシテより下にある事は事実です。だからといって、価値まで下にあるものではありません。

 一人前の狂言師になるには、流儀によって多少の違いはありますが、キチンと稽古順も定められ、一通りすまねばならぬ事になって居りますから、修業という点からいっても、決しておシテだから六ヶ敷、狂言だから簡単だという訳ではないのです。一生懸命に勉強し、鍛錬をしなければ、やはり皆様にお目にかけられない事は、おシテと同様でございます。

 

〇翁式の故実

 さて、能の元来の成立ちの事を申上げましたから、翁式について例を申上ましょう。是も御承知の事ですが、翁はおシテのもの、三番叟にはこちらのものでありまして、車の両輪という言葉が適当でなければ夫婦関係にあるものだといってもよいのです。両方が助け合わなくては一家がうまく行かないのと同じで、翁だけでもいけず、三番叟だけでもいけません。お互に協力してうまいものをやる所に立派な翁式がうまれる訳なのです。

 舞台の正面には白洲に階段があります。当今で滅多に使いませんから、何の役に立てるものか御承知のない方もありましょうが、あれは翁式には是非必要なものだったのです。

 翁が開曲になります前に、能奉行が此の階段から舞台に上って橋懸揚幕の際まで来て、例の「……はじめませい……」を申します。此時、揚幕を少しあげて、太夫は幕の内で床几から下り一同を代表して礼を致します。扨て能奉行が元へ帰り下に居ると、今度は本幕で出て一同もついて舞台に入ります。只今ではお金を取って売らんならん事になりましたから、略式になって囃子方は座ついたら直に床几にかかりますが、昔はそんなものではなく、御前がかりですと、翁の間は、床几にかけられませなんだ。まあ、只今の囃子の時の様に座ったままで打っていたものでございます。

 翁がえりがあって是で改めて、能奉行の向うの縁まで出て床几御免と言いますので、其時小鼓の頭取が一人礼をして直ちに床几にかかるのです。是は坐って居たのでは、充分に囃せないという事からの斟酌であると聞いて居ります。是で三番叟になります。ですから、本当に囃すのは三番叟からでありましょう。

 そこで能と狂言が組んで一曲のものであるばかりでなく、狂言が一段下ったものでない証拠になると思います。

 次に、近頃はトント出ませんが、風流というものがあります。是も狂言の役です。ワキ方には開口というものがありますが、儀式が重くなった時、重要な役目が加えられるのはきょうげんかたであって、おシテ方ではない所にも狂言の地位がお分かりかと存じます。

 斯うした重要な役所を勤めますので、脇能がすんだあとで舞う脇狂言は重要なものになります。

〇真の脇狂言

 脇狂言というのは、末廣、麻生、目近、三本柱、張蛸の五番をいいます。是以外の脇狂言の部類に属した曲は翁附では用いませんので普通、ショテといって此の五番と区別して居ります。ですから、翁附でなかったら、脇能の次には脇狂言でなくショテの内のものが出るのが普通で、翁附でなければ脇狂言とは決していわないのでございます。

 斯うしたキチンとして約束のもとにいわば大役に当る狂言師が、今日軽るく見られて居る事は、結局、芸の上に認められる程のものを、持たない所にあるのではないかと思います。

 というと仲間内の事になりますが、少々なさけない事になります。

 斯ういったからといって、私が上手だとか、物を識って居るとかいうのではありません。幸にして親共から書物を伝えられて居り、口伝も受けてありますので、知らない事はお互に相談しあってなりと勉強につとめて、故人が何代もかかって是程立派なものを残してくれたのですから、次の人達へ立派なものとして伝える事が、私どものつとめでもあり、故人に対する責任でもあると考えて居ります。

 

〇弦師の十徳と桶、美男

 とんだ愚痴話になりましたが、では、思いついた事からボツボツお話しましょう。別に一貫した筋もなく、断片的に一ツ一ツまとめて行きますからそのおつもりで、お聴き下さい。

 先日、観世会で「弦師」を勤めました。

 あの時に用いた弦桶は今度作りましたもので、東京では作る所がありませんので京都へ註文しました。直径六寸、高サ一尺二寸がキマリでございます。作ります前にある弓師の所へ参りました所が、今は弦は糸巻に巻くので弦桶はないとの事でした。そして、全然ものも知りません。

 所が狂言には残って居るのですから、こんな所にも昔を知る資料がありましょう。材料は檜で曲物と思えばいいのです。

 十徳も紅一色のもので、俗に紅十徳といい是も新調致しました。此曲で男が美男をつけますが、此曲一番だけにしかない特別なつけ方で、一度巻いてきた残りを額でよじって恰度丁髷がのった様にし、残りを胸まで垂して帯にさしこまないですむ位の、短さにしておくのがキマリでございます。

「狂言秘帖 野村又三郎翁聞書(二)」(雑誌能楽)

〇観世流は「極神道」

 話が前後致しましたが、モウ少し翁と三番叟の事を申上げておきたいと思います。

 翁、千歳、三番叟の立て方は昔から種々といい伝えて居りますが、流儀によって夫々のきまりのあるもので厶(ござ)います。先ず観世流では「極神道」と申しまして、即ち翁の御伝授は、吉田殿から御相伝といわれて居ります。又、翁、千歳、三番叟の三人を三社ともいいます。三社というのは次の通りでございます。

 翁 天照皇太宮 千歳  八幡大菩薩

         三番叟 春日大明神

次に、金春流では、和歌三神と申します。即ち

 翁 住吉大明神 千歳  玉津島大明神

         三番叟 人丸大明神

又、或人は天地人の三才とも申して居ります。天は翁、地は千歳、人は三番叟です。

 最後に私共に所蔵致します「三番叟」という書物には左の通りございます。

 翁 天照皇太神宮 千歳  天鈿女命

          三番叟 猿田彦太神宮

 

〇置口の秘伝

 翁に用います面箱に置口の秘伝がございます。

 面箱の蓋と身の合わさり目に、錫をふせる事でございまして、是を置口といって居ります。此の錫をふせます事は、最も古風とされているのです。

 金をふせたり、何もふせてないものもほざいますが、是はきまりが破れてからのものなのです。

 

〇楽屋の作法

 楽屋での席順は、先ず太夫、次に脇、それから狂言、囃子、地謡の順に定められて居ります。此の順は身分の上下といった事できめたのではありません。相当古い時代からのきまりでございます。

 一体、楽師(能役者)は一列一体で、上下の差別などいうものはないのが本来であります。では、何によって席順を定めたかという事になりますか、それは、能の模様(演出其他)によってきめたのです。此事は既に翁式でも分る事でございます。

 

〇三番叟五段の事

 三番叟には五段という事があります。是は大鼓の揉出シに五段の打様が有るので、是の事だといわれて居ります。

 大鼓の五段というのは、揉出シの頭を段といいまして、先ず初に頭をうって、夫からキザミを打ち、又頭を打ちます。是が二段です。頭取は二段を聞いて其中から立ちまして、ハヽアという時に三段の頭を打ちます。次には「我此の所より」と言う所で打ちます。是が四段の頭です。それから「遣らじとぞ思う」の所で頭をうちます。是が五段目です。

 斯うした細かい約束は、一般には不必要かも知れませんが、知ってて見ますと、やはり異った味のあるものでございます。

 

〇三番叟が必ず心得べき事

 三番叟を舞う程の楽師は、先ず第一に自分自身の曲尺(カネ)という事をよく知らなくてはなりません。物の本に

 曲尺ハズレヌレバ、見苦敷ク、生レ付カザル片輪ナリ。五体不具ニシテ、仏ニナリガタシ、習ウベキ事ナリ。

とありますが、是はもっともな事だと思います。

 曲尺というのは、自分の生れついての身をもって定めるのでございます。例えば五尺三寸の身のたけの人と、六尺に近い人とでは、曲尺のとり方が変って来ます。例えば、三番叟と限らず、左右一ツ致しますのにも、此の事は大切な事でありまして、身のたけの小さな師匠は手を稍々上にして、ヒラキ方も大きいのを、身のたけの大きなお弟子がその通りやったら、それは曲尺にはずれてしまいます。自分の身のたけ、足の長さ、手の長さ、ヒライた幅といったもの総てが曲尺になりますので、その曲尺を基礎にしまして、きめて行くものなのでございます。

 それがきまらずはずれてしまえば、生れもつかぬ片輪になります。成程、整って居るものが整わぬのですから片輪にちがいありません。

 ですから、生れついての片輪なら、是は致し様もありませんが、片輪でないものが片輪になっていたら、是は祝言の意に叶いません。従って神仏も受納する事はありますまい。

 斯ういった訳であって見れば、曲尺という事は是非心得て居なければならないのでございます。

 

〇陰陽装束の糸

 糸針というものは、御承知の様に、装束をつける場合には是非必要なものです。その糸の事ですが、太夫と狂言では替りがあります。即ち、陰陽の糸でありまして、是には口伝がございます。

 私共が知ってからでも、本願寺などでは、使う所と陰陽のきまりを心得て居りまして、白なら白を一匁と申しますと、チャンとキマリのものを出してくれたものでございまして、そうした心得があったものえす。で、一尺ほど使いますのにも、一匁の糸が下ったもので、兎に角ユッタリもして居りました。

 さて、翁式の装束について申しますと、翁は前に申しました様に、天地人三才の内、天でありますから陽と立てまして、陽の糸を用います。三番叟は地でありますから、陰と立てまして、陰の糸を用います。千歳は人でありますから、陽と立てまして、陽の糸を用いるのでございます。

 

〇烏飛陰陽の事

 三番叟には陰陽を専らにして、掛声は申すまでもなく所々に習いがありますが、中にも揉之段のうちにある烏飛では、ただエイエイと飛ぶのでなく、陰陽に飛ぶ事が習いであります。


「花子の話」野村又三郎(能楽謡曲芸談集)

 

 皆さんのおすすめもありますし、又倅にも今のうちに一ぺんは見せておきませんと困りますので、今度勤めることに致しました。御存じの通り、「花子」は大物で、アドも余程シッカリして居りませんと演り難うございますが、幸いと万造氏が引受けてくれましたので私もよろこんで居ります。

 一体和泉流の三宅と野村(又三郎氏)の家は、特別な扱いをうけて居りました家柄で、この両家だけは狂言の免状を自分で発行出来たものでございます。ところが夫れほどの家でも「花子」の免状は家元から出して貰うのですから、この狂言がいかに大物であるかがわかりましょう。「花子」と「釣狐」の二番がそういう掟になって居ります。この秘曲の中の秘曲とも申すべき習物をいたしますこと故、中々思うように上手くは参りますまいが、まあ私としては一所懸命に和泉流の正道によって演じますつもりで御座います。

 「花子」一番の主意は、妻を騙らかして花子の許へ逢いに行くところにあります。全体が長丁場であって、そうして型どころもあり、謡いどころもあるのでかなり骨が折れます。あの小唄は習になって居りますが、あれとても唄を聞かせるのではなく、惚ろ気を聞かすのですから、柔かくてそのうちに十分に色気がないといけません。堅くてはもとより駄目、といって品がわるくてもいけません。あそこからは一種の物狂いとなるので、そのつもりで演じます。物狂いものに限って諷い出す時の足に口伝がございます。諷い出す時の足づかいで、その役者の心得の有無が知れましょう。

 同じ物狂いでも、これは「金岡」に較べますとズーッと上位になります。それはなぜと申しますに金岡はただの絵師、花子のシテは四位の少将となって居りますから、もうそれだけで位の相違はわかりましょう。それに内容も花子の方が複雑で難しう御座います。妻を到頭たばかって急いで花子の許へゆくことになって、「総じて女の夫をたばかるは、夫より勝るとある、その上きゃつはくりの早い女云々」ともあるように、双方で秘術を尽くすというやつですから、金岡の物狂い一方とは大分ちがいます。世間には金岡を大そう重く舞うのがありますが、あれでは花子をどんな位に演るかと他所事ながら心配になります。ああいう物は物狂いを主にしてアッサリ勤めなければいけません。

 「花子」は前にも申しました通り、妻との問答からして面倒です。うすうす感づいてござる山の神を承知させるまでは容易なことではない、諸国修行に十二三年もかかろうかと言い出しておいて、それが漸う漸う一日一夜の暇で落着く、それも持仏堂の座禅という、窮屈なことで妥協が出来るという、そこまでの掛引、太郎冠者を代らせる所など何れも大切でありますが、後の小唄で出てからが矢張り見どころ見せどころでしょう。素袍の肩脱ぎで出て参りまして、「更けゆく鐘わかれの鳥も」と諷い出しますところが難しうございます。それから睦言を語るのも、小唄まじりで、所作があり、狂言として最高の位を見せながら、柔らかく、艶めかしく演ずるところに苦心があります。あそこの文句はみなよう出来て居りますな。

 妻戸をほとほとと叩いたればほとほとおたたいた水鶏にさえも身はやつす……よその上臈みてわが妻みれば(よその上臈みてわが妻)みればみ山の奥のこけ猿めが、雨にしょぼ濡れてついつくぼうたに(さ)も似た……音もせでおよれ(音もせで)およれ、烏は月になきそろぞ……俤の立つ方をかえり見たれば月細く残りたりや名残惜しやの……

 とかく狂言をおシテの領分に侵入するようにな舞い方をする向もありますが、狂言はどこまでも狂言でございまして、自分の位というものを守ってその範囲で演ずるのが本旨で御座います。笛の譜にしましても同じものを吹いても、そこに能の吹出と狂言の吹出とは、チャンと位の区別がございましょう。その通りで、花子の名宣でも本名ノリと言いまして舞台の真ン中で名乗ることになっておりますが、その真ン中もおシテ方とちがって少し先へ出ることになって居ります。おシテへ遠慮してのことです。又襟にしましても、本来は白であるのを矢張り遠慮して用いません。花子の名ノリは位をとってそして余りシトラヌように扱います。このシトラヌということが大切です。名ノリに限りません。すべてこの心持でいたします。

 シテの装束には真行草の三種ありますが、今度は行の方でいたすつもりで居ります。前は侍烏帽子に素袍上下となり、着附は箔をきます。後は素袍の右肩を脱いで腰に挟み、小刀をとってその代りに太刀を左手に持ち扇を右手に持って出ます。襟は緋と浅黄を用い、素袍の模様は夕顔がキマリでございます。扇子のキマリもございますが、今度は私の家に伝わる由緒の品を用います。この扇子は表は田子の浦を群青で描きまして、それに松に下り藤があしらってあり、裏は白菊模様になっております。これは曽祖父が花子を舞ったときに用いました物で、父もこれを用いて花子を舞って居ります。今度またまた私がこの扇子で花子を勤めますことも何かの因縁でございましょう。四代に亘っての扇子で花子を勤めますことは何となく不思議な嬉しさを感じます。この扇子はさる絵師にお貸ししてあったために震災の時消失を免れましたので、私の手元にあったら却って消失してしまっていたのでございます。他の装束は全部新調いたしました。

 

 尚私の勤めます他の二番、才宝と茶子塩梅も亦珍らしい狂言でございまして、近頃トント舞台に上っては居りません。

 才宝はまず狂言中の皮肉な曲とも申しましょうか、あのシテの祖父の開口に第一の秘事があり、又その歩きかた、腰の入れかたに大切な習がございますので、当流では孫聟雪打の二番とこの才宝とを三祖父と申し面倒な習いものとして居ります。

 茶子塩梅の方はまた一風変った内容でございまして、シテは唐人、アドは日本の女、まあ只今で申せば国際結婚というのでしょうが、微細な点になりますと人情の相違でお互に不満がある。そこを取扱った曲で、唐人の夫と日本人の妻との間にいろいろと取やりがございますが、つまり狂言としての狙いは、シテが楽を舞うところにございましょう。その楽をお能のそれとは異なった味に舞うところに演者の第一の苦心があるので、狂言の位をもっていかにも唐人らしくまうという処を見て頂きたいのでございます。