私の師匠の家である野村又三郎家は、江戸初期の和泉流草創期から、約四百年続く家柄です。
家元の山脇和泉守とともに尾張徳川藩の禄を受けながらも、江戸時代を通して京都に在住しました。禁裏御用を勤め、ことに近衛家とは深い関わりを示す記録が残っています。また尾張藩御抱えとなる前には、肥後細川藩や加賀前田藩にも雇われていたと伝えられています。家元の幼少時には芸事後見をつとめ、加賀前田藩御抱えの三宅藤九郎家とともに中伝(三番叟)以下の免状発行権をもつなど、弟子家のなかでも別格とされていました。
明治維新以降の動乱時代を経て、能楽界では多くの家元旧家が途絶えてしまいましたが、野村又三郎家は辛うじて代々の芸統を守り伝えて現在に至ります。
弟子には、江戸時代から熊本藩御抱えの小早川家・野間家、大坂の柳川家、明治以降は名古屋狂言共同社結成メンバーとして重きをなした河村鍵三郎らがいました。
現在の当主は十四世野村又三郎信行(名古屋在住)。一門の能楽協会会員は9名、うち重要無形文化財総合認定4名。名古屋と東京を中心に全国的に活動をしています。
伝統芸能の狂言は代々の芸を守りながらも、一代ごとに徐々に変化はします。家伝としては「サラリと軽く」という言葉などが伝書に強調されているようです。私の師匠である、先代又三郎師の演技は、軽妙洒脱と評され、あっさりとした澄まし汁のような狂言でした。また私たちも稽古では演技のやりすぎを諌められました。当代の又三郎師は先代に比べると濃厚で、明るく強く、サービス精神も旺盛ですが、やはり他家にない軽快さも持っています。
また、野村又三郎家の狂言を特徴づける根本として、野村派(又三郎家)で使われる台本(和泉流では「六義(儀)」といいます)の存在があります。
詳細はここでは省きますが、和泉流で現在使われている3系統の台本のうちで、唯一大きな改訂が施されていない台本と考えられます。それはすなわち、野村又三郎家独自の台本というよりは、和泉流本来の台本であったものと思われます。
野村又三郎家の台本は、中世以来の京都周辺庶民の息づかいを最も残しており、そこに描かれた狂言のテーマを現代に素直に演じて見せるのが、野村又三郎家の狂言の大きな特長であると言えます。
そのほか、野村又三郎家や関連の資料を「資料部屋」ページに掲載しています。ご興味がありましたらご覧ください。